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ある大阪の大学生やってる小峰輝久が一生懸命に(or気ままに)書き綴ったものを挙げていきます。


by teltel-challenge

藤田省三『転向の思想史的研究』を読んで感じたことⅠ

―はじめに―
 今までの発表ではいろいろよくわからないことをしてきたので、ひとつ常識を前面に押し出して真面目にやってやろうと思い、今回は保身と妥協について発表させていただくことにしました。多くの方にとっては、「そんなことは当然だ」という程度のレベルのものだと思われますが、私はまだ若いはずですから、お許しいただければと思います。
まず、このような俗っぽいことを書いた動機について短くお話しすることにします。
 これについて意識的に考え始めたきっかけは、やはり保守政党から極右政党に成り下がった自民党、特にその自民党憲法草案の一節を目にしたときだったと思います。

第十二条 
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

 私はこれを見て非常に驚きました。一見正論に見えるこの「道徳」は国家による人権侵害を実質的に肯定したものだったからです。実際に、言論の自由は徐々に奪われていっている。反安倍を標榜した古賀氏らが「公正中立」な報道を求める自民党の圧力によってテレビ朝日の「報道ステーション」から降ろされたり、政権からの明らかな圧力はなくともサザンオールスターズの桑田氏が自らの安倍批判を撤回させられたりしている。少しの圧力をかければ、自主規制の雰囲気が蔓延するのも早く、多くのメディアはすぐに押し黙ってしまいます。全体主義が蔓延する所以です。
 もうひとつのきっかけは社会に出る前の忠告として「現実を見ろ!」式のお説教を受けることが多くなったからです。まったくその通りで現実はしっかり見据えなければならないのですが、そのような「現実主義者」の話は基本的に面白くない。なぜなら、後々を考えてちょっと気取った表現にしますが、彼らは勝利か死しか語りたがらないからです。敗北を語りたがらない。

金八先生みたい教師になるんちゃうんか! そう自分に言い聞かせてきたが、ついにできなかった。

と、定年で退職しなさった体育教師は、幼く反抗的な高校生だった私を前にして語ったことがあります。かの教師はちゃんと敗北したということを語ってくれました。それは記憶に残っている。その敗北の理由をもう少しお聞きできれば、彼なりの生き方が、つまりどこで身を保ち、どこで妥協したかということが見えてくるのですが、残念ながらそんなことを当時は考えもしませんでした。
 上記が示唆しているように、私が想定している保身と妥協は、理想と現実の間で引き裂かれる個人というものの戦術戦略を示す言葉です。国家にせよ学校にせよ会社にせよ、個人を何らかの形である型にはめようとしてくる。これに対し、いったいどうすればそれを批判し自らをぎりぎりのところで保つことができるのか、という問題意識が私の中にはあります。
―転向―
 そういう関心をぼんやりと持っていながら、日々を送っていますと、ぽっと「転向」という言葉が頭に浮かびました。転向とは、と定義から説明するとさまざまな歴史があってややこしいのですが、代表的な事例を述べるならば、昭和前半期に自由主義者や共産主義者が国家主導の天皇制ファシズムを容認する方向に立場を変えた諸現象のことです。それは自発的に行われることもあれば、国家権力に屈してということもあります。
 藤田省三の『転向の思想史的研究』という本を読んでみると、これなかなか面白くて、大学に入って以来、これほど面白い本は読んでいないぞと思うほどでした。なぜ面白いかというと、そこには転向(=妥協)せざるをえなかった人間がそれでもやはり体制を批判したり、自分の内面に対する国家権力の侵入を防ごうとする姿が描かれているからです。その試みがいかに失敗し成功したかが書かれているからです。もちろん、戦前だけではありません。戦後の国民的集団転向の問題も取り扱われています。
by teltel-challenge | 2015-06-06 09:38