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ある大阪の大学生やってる小峰輝久が一生懸命に(or気ままに)書き綴ったものを挙げていきます。


by teltel-challenge

阪大野宿体験記 1日目

同居人の諸事情で3週間、シェアハウスが使えなくなったので、大阪大学で野宿します!

野宿1日目

謎にレポートしていきます。

痛い。痛い。腰痛い。眠い。
しかし、とても気持ちのよい朝です。めっちゃ鳥が鳴いています。

警備員さんが三人注意しに来てくれました。「生きてるか?」と話しかけてくれた優しい警備員さんとの闘いがこの先待ってるかもしれないと思うとちょい悲しくなります。

ランニング中のおばちゃんたちに、
「なんかの場所取り?」と聞かれたので、
「えーと、野宿です」と答えたら、
「野宿かー。明るい野宿やな!」と評価していただけました。
明るい野宿てなんや。しかし、やはり明るい野宿を目指していきます。

とりま、腰のために、何か対策を考えないと
# by teltel-challenge | 2015-05-28 11:27
哲学カフェ@中山観音
テーマ:生きがい、とは何か?

今回は、参加者の方からテーマのリクエストがありました。生きがいとはなにか?
これは生きるうえで最も重要なテーマの一つだと思います。誰もが青年期から老年期まで人生を通して悩み続けるテーマであるにもかかわらず、共通の答えはないという難問です。コーヒーでも飲みながら、
今回生きがいについてゆっくりと考えて見ましょう。

日時:5月30日(土)11:00~12:30
場所:ミュージアムカフェみゅ~ず
   (阪急中山観音駅直ぐ)
参加費:ドリンク代
連絡先:小峰輝久
090-6233-1268  teltel-challenge@ezweb.ne.jp
# by teltel-challenge | 2015-04-30 18:22
僕は集団でいるのよりも、ひとりでいたりふたりでいたりするのが好きです。さみしくないときは、ひとりで、さみしいときは、だいたいふたりでいます。

でも、哲学とか学問って、だいたい個人と集団とか、自己と他者みたいな感じで、ふたりということを考察することってないんですよね。

しかし、テレビを見ると、特に探偵物、警察物なんかコンビが多い気がする。いや、だいたいコンビじゃないか?相棒とかホームズとかガリレオとか。コンビで権力、組織、強者に対峙していきます。

これをなあ、自己と他者とかいう言葉で括っていいのかなあ、と思ってしまいます。うんだから、僕が吉本の言葉を借りて、その間を埋めます。ひとりーふたりーたくさん。あるいは、個人ー対(つい)ー集団。

このふたり、つまり対というのはけっこうすごいんじゃないか、と思います。というのも、集団に抗することができるような気もするからです。ちょっと、その特徴を少し挙げてみましょう。

まず、対には三人目がいません。ひとりーふたりー三人なんですよね。三人は、り、じゃないんですよねー。にん、なんですよねー笑

それで、三人目がいないということはどういうことかというと、裁判官がいないということです。たとえ、ふたりの間で意見が対立しても、お前が正しい、こいつが正しいという人がいません。

これは案外、重要だと思います。『母がしんどい』という娘と母が戦う漫画のなかで、お父さんはそのケンカを止めることもしないし入ることもない。何もしない存在として描かれています。ですから、娘は「お父さんは黙っていることで自分の味方をしているのだ」と勝手に解釈します。でも、祖母の死を契機に、お父さんがお母さんの味方をしてしまうようになるので、主人公である娘は非常に苦しむことになります。

三人目はどうしで裁判官になってしまいがちです。少なくともなりうるという潜在性を常に孕んでいます。その点、ふたりのときはどちらが正しいという、訳ではありませんから、正々堂々という感じです。とことんやれる。

もうひとつはノリです。「飲めよ!飲めよ!」という感じのノリは、集団のなかで生まれがちなもので、多少、嫌がる人がいてもお構いなしでノルことが要求されます。これはノリが合えば楽しいですが、合わなければ楽しくありません。

これに対して、対の場合、ノリを拒否することが比較的容易なわけです。ノリは誰かがノラないと破綻します。しかし、ふたりのとき、ノリがわからないときなどは黙っていればいいのです。集団だとそうはいきません。ノリを破綻させるわけにはいかないからです。ふたりのとき、ノラせようとする片方と、それを嫌がっているもう片方という構図においては、そこで生まれるノリはすぐに破綻してしまいます。そして、少なくともその場ではそのことで裁かれることはありません。

僕の考えでは、ひとりでもノリは生じてしまうと思います。僕はヘイトスピーチの現場で、日本は単一民族だとか、日本は過去も現在も素晴らしいのだとか叫ぶ人たちを見てそう感じます。同じ言葉がずっと頭の中をぐるぐる回っているのです。その言葉が熱していってひとつのノリになります。僕もそうなりやすいのでよくわかります。

言葉がひとつのノリになります。「いっき! いっき!」という同語反復はその象徴です。そういう言葉はは「それはほんとかな?」とか「嫌がるひともいるんじゃ?」と違和感を抱く自分を無視して、そういう言葉を叫びたい激情の自分が違和感を抱く自分にノルことを強制するのです。そうして、ノリが生まれます。個人という複数の自分の集団から。

ひとりはある意味、集団の一形態だと思います。いろいろな自分がいて、それが相互に話し合い決定する。たとえば、ケーキを食べたい自分と太るのを厭う自分というのがあります。その他、たくさんの自分がいて、ケーキを食べると決めるのです。

これに対して、ふたりでは片方が嫌がるなら、ケーキを食べようということにはなりません。ふたりですから、一方がかなり抑止力になります。

ヘイトスピーチにせよ、あれはノリたい自分が違和感を感じる自分を無視してノラせているように見えます。そして、それは集団のなかのノリのように、かなり強力なノリであり、違和感を感じる自分などはその激情のなかで忘れられてしまいます。

そういうときに、ふたりだとまだそれに対する抑制を有効にすることができます。なぜなら、ノってくれるのが相手しかいないから、その相手を無視しえないのです。

政治や国家がノリを要求してくるときに、ふたり、対といえのはなかなか大きな力を持つのではないかと感じています。
# by teltel-challenge | 2015-04-23 23:26
なんかいろいろ飲み会でしゃべってて民主主義の価値を訴えるのが急務のような気がしたので、民主主義の基本的なことについて述べます。

民主主義の悪口は、だいたい「最良の結果が出るわけではない」です。たしかに優秀な独裁者の方がいいと思うときもあります。

しかし、問題は結果ではなく過程なのです。決めるときに、国民がなんだかんだ言って考え話し合う、ということが大事です。投票だけでなくデモなどで権理を行使し、何よりその権理を獲得しようとすることが大切です。なぜなら、そのことによって、次はどのように行動しようかと国民の政治意識が形づくられ向上していくからです。お上に任せていてはいつまでたっても国民の政治意識は低いままです。それではいつまで経っても安定してより良い結果を残すことはできない。すべてお上の能力任せになる。

民主主義は国民に政治への参加を求めるが故に、国民の政治意識を高めます。それ故に、最もマシな制度なのです。専制では権力者だけが政治の権限を握り、国民に政治への参加を求めないので、国民の政治意識は低いままです。

結果ではなく過程が重要なのです。政治の結果ではなく、国民に政治意識を持たせることが民主主義の最大の利点です。それは国民が自分の権理を獲得し守ることに直結します。
# by teltel-challenge | 2015-04-08 18:44
日本を調べるに当たって、やっぱこれはいるだろと論語を先日買いました。論語のなかには孔子、子貢、子路、顔回などひたすら君子になろうとしている人たちが出てきます。君子危うきに近寄らず、の君子です。君子は人間の理想状態、これを目指して現実の自分を絶えず否定していく。これが儒教のやり方です。

人間個人に限らず社会の状態においても、理想というものは重要です。理想は現実を否定するきっかけになるので、それなくしてはただだらだらと既成事実に追随する「現実主義者」になってしまう。

理想を語られた時には「それは理想だ!」と応答するのではなく、「理想はわかった。じゃ、それを達成するためにどうするの?」と問わなければなりません。

で、理想を語ると。。。
権理について述べようと思います。

権理というものは人類個人個人が持っているものだとされています。そして、個々の権理はつながっていると思います。あいつの権理とこいつの権理と僕の権理はつながっているのだと。
それはどういうことかというと、すべての人間の権理はひとつの統一戦線を作っているということです。あいつの権理が侵されているならば、それは戦線が後退しているということで、こいつの権理や自分の権理もまた後退することになります。

たとえば、安倍首相は戦争中の権理についてこう言っている。「パレスチナを見てください。戦争に負ければ権利も何もありません。だから、戦争中には基本的人権は制限されます」

日本ではじめて基本的人権が確立された理由が敗戦にあったことは置いといて、(そして、国民を虐殺に導くのは敵国ではなく自国であるということも棚に置いといて)

安倍首相はパレスチナの人間に権理はない。だから、権理がなくならないために日本人も戦争に負けないよう権理を制限されてしかるべきだ、と述べています。

ここで安倍首相は権理というものが虚妄であることを暗に示しながら、国民の権理を守るという名の下に国民の権理を奪おうとしています。(戦争に勝ったら国民に権理を返してくれるなんてありえません)

パレスチナの権理はたしかに後退している。これが日本人の権理の衰退にも直結してくる。それはつまり理想を体現する社会が成立していないがゆえに、パレスチナ社会は現実を否定する具体的な目標として機能しないからです。比較的、理想が体現できている社会が多ければそれだけ、人々はその理想を目指す力を持つようになりますし、圧力だってかかってくる。理想を体現している社会が多ければ多いほど、体現できていない社会を否定する力は強くなる。(だから、西欧諸国を目指せ!という日本の目標は正しい)

安倍首相はむしろ国家がない状態としてのパレスチナを国民に見せることで、国家の必要性を認識させようとしています。しかし、問題は権理の有無であり国家の有無ではないのです。

パレスチナの問題は、パレスチナとイスラエル人に任せるしかない。日本人にできるのは、自分たちの権理を行使し国家権力に攻勢を加え続けることだけです。もし、自民党憲法草案が通って自由主義国家日本が沈没すれば、権理の統一戦線はまた一歩後退したことになり、諦めムードが出てきます。権理が現実を否定する力をなくしていきます。

近代において、人間は常に国家との対決を迫られることになりました。もし、国家が戦争を起こせばどうなるか?ーー国民はふたつの戦争を強いられる。つまり、敵国との武力闘争と自国との権理闘争。そして、たとえ敵国兵士と銃口を向合うことになっても、敵国兵士と自分たちとの権理が統一戦線を組んでいると思えば、彼らは同時に友軍でもある。銃口を向けあいながら、同志であるということはまったく可能なのです。

ー追記ー
同じ国家のなかでは権理はよく強くつながっています。湯川さん後藤さんを自己責任だとした人間は、権理を自ら捨てたことになります。いずれも国家によって守られる権理があったのだから、その素行はどうあれ守らなきゃいけない。それは自分の権理の闘争だから。
# by teltel-challenge | 2015-04-08 18:42