僕は集団でいるのよりも、ひとりでいたりふたりでいたりするのが好きです。さみしくないときは、ひとりで、さみしいときは、だいたいふたりでいます。
でも、哲学とか学問って、だいたい個人と集団とか、自己と他者みたいな感じで、ふたりということを考察することってないんですよね。
しかし、テレビを見ると、特に探偵物、警察物なんかコンビが多い気がする。いや、だいたいコンビじゃないか?相棒とかホームズとかガリレオとか。コンビで権力、組織、強者に対峙していきます。
これをなあ、自己と他者とかいう言葉で括っていいのかなあ、と思ってしまいます。うんだから、僕が吉本の言葉を借りて、その間を埋めます。ひとりーふたりーたくさん。あるいは、個人ー対(つい)ー集団。
このふたり、つまり対というのはけっこうすごいんじゃないか、と思います。というのも、集団に抗することができるような気もするからです。ちょっと、その特徴を少し挙げてみましょう。
まず、対には三人目がいません。ひとりーふたりー三人なんですよね。三人は、り、じゃないんですよねー。にん、なんですよねー笑
それで、三人目がいないということはどういうことかというと、裁判官がいないということです。たとえ、ふたりの間で意見が対立しても、お前が正しい、こいつが正しいという人がいません。
これは案外、重要だと思います。『母がしんどい』という娘と母が戦う漫画のなかで、お父さんはそのケンカを止めることもしないし入ることもない。何もしない存在として描かれています。ですから、娘は「お父さんは黙っていることで自分の味方をしているのだ」と勝手に解釈します。でも、祖母の死を契機に、お父さんがお母さんの味方をしてしまうようになるので、主人公である娘は非常に苦しむことになります。
三人目はどうしで裁判官になってしまいがちです。少なくともなりうるという潜在性を常に孕んでいます。その点、ふたりのときはどちらが正しいという、訳ではありませんから、正々堂々という感じです。とことんやれる。
もうひとつはノリです。「飲めよ!飲めよ!」という感じのノリは、集団のなかで生まれがちなもので、多少、嫌がる人がいてもお構いなしでノルことが要求されます。これはノリが合えば楽しいですが、合わなければ楽しくありません。
これに対して、対の場合、ノリを拒否することが比較的容易なわけです。ノリは誰かがノラないと破綻します。しかし、ふたりのとき、ノリがわからないときなどは黙っていればいいのです。集団だとそうはいきません。ノリを破綻させるわけにはいかないからです。ふたりのとき、ノラせようとする片方と、それを嫌がっているもう片方という構図においては、そこで生まれるノリはすぐに破綻してしまいます。そして、少なくともその場ではそのことで裁かれることはありません。
僕の考えでは、ひとりでもノリは生じてしまうと思います。僕はヘイトスピーチの現場で、日本は単一民族だとか、日本は過去も現在も素晴らしいのだとか叫ぶ人たちを見てそう感じます。同じ言葉がずっと頭の中をぐるぐる回っているのです。その言葉が熱していってひとつのノリになります。僕もそうなりやすいのでよくわかります。
言葉がひとつのノリになります。「いっき! いっき!」という同語反復はその象徴です。そういう言葉はは「それはほんとかな?」とか「嫌がるひともいるんじゃ?」と違和感を抱く自分を無視して、そういう言葉を叫びたい激情の自分が違和感を抱く自分にノルことを強制するのです。そうして、ノリが生まれます。個人という複数の自分の集団から。
ひとりはある意味、集団の一形態だと思います。いろいろな自分がいて、それが相互に話し合い決定する。たとえば、ケーキを食べたい自分と太るのを厭う自分というのがあります。その他、たくさんの自分がいて、ケーキを食べると決めるのです。
これに対して、ふたりでは片方が嫌がるなら、ケーキを食べようということにはなりません。ふたりですから、一方がかなり抑止力になります。
ヘイトスピーチにせよ、あれはノリたい自分が違和感を感じる自分を無視してノラせているように見えます。そして、それは集団のなかのノリのように、かなり強力なノリであり、違和感を感じる自分などはその激情のなかで忘れられてしまいます。
そういうときに、ふたりだとまだそれに対する抑制を有効にすることができます。なぜなら、ノってくれるのが相手しかいないから、その相手を無視しえないのです。
政治や国家がノリを要求してくるときに、ふたり、対といえのはなかなか大きな力を持つのではないかと感じています。