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ある大阪の大学生やってる小峰輝久が一生懸命に(or気ままに)書き綴ったものを挙げていきます。


by teltel-challenge

藤田省三『転向の思想史的研究』を読んで感じたことⅡ

―理想―
 とりあえず、前置きをこれくらいにして、最近考えていることのあれこれを述べていきたいと思います。保身と妥協、これらは理想とか、せめて欲望があってはじめて成り立つものでしょう。こうしたい!という理想(あるいは欲望)がなければ妥協も何もありはしません。ただ、現実がのしかかってきてそれに押しつぶされるだけです。それはそれでよい。ですが、私はそうは生きたくない。ここで私は理想に関して、後々のために少し詳しく述べさせていただきます。
 理想は現実を否定するために存在しています。理想を目指すとは、現実を否定して理想により近い社会や人間を目指すということです。そのため、理想は行動規範となります。理想は達成できるものではなく、目指すべきところであり、道を指し示すものとなります。たとえば、儒教は「君子」を理想の人物像としていますが、その君子という言葉は今の自分を否定するものとして働く。孔子が目指した「周」の国なども現実の国の状態を否定するものとして作用します。そうしてひとりひとりが自らの理想を目指して行動する、という風にすれば、おそらく誰も現実に押し流されるままということはない。現実を否定する理想が、現実の侵攻を食い止めようとするからです。
 では、各人にとっての理想はいかに形作られるか? それは現実と直面してからではないかと私は思います。すでに理想として与えられた「君子」や「周」も、現実に直面しないとその真価がわかりません。自分自身をある型におしこめ苦しめる現実(これは過去の自分自身ということもあります)と直面し、その型と自分自身の間に生まれる歪み、そこから理想というものが生じるのではないかと思います。ですから、理想というのが先にあるのではありません。理想は後から作られます。
 それはどういうことかというと、私が理想を形作った時には、すでに私は何らかの形で妥協していることに気づかされるということです。理想を作ったとき、自分の立っている場所は後退しているところにあったということだと思います。すでに自分は妥協している状態から始まるのです。そこから理想に向かうことになる。
 その理想を形作るのだって大変です。そもそも理想を作るには理性というよりも自分自身の感性、違和感を大切にする必要がある。吉本隆明にこんな言葉があります。

「心の中で少しでも「いや」というか、悪いことじゃないんだけれども、何か浮かない感じだなと思ったら、必ずそれはもう言うべきであったっていうのは、やっぱり戦争の終ったときの反省した一番のことなんです」

この言葉を聞けば、その立場がどうあれ吉本が一本筋通していた人間だというのはよくわかります。
 「何か浮かない感じだな」と思いそこから考えて違和感をひとつひとつ明らかにし、そうして違和感を解決する形で理想ができる。思考の根本に感性があるとはよく言ったもので、その感性を大切にしなければ思考というものは始まらず、理想だって作ることはできない。違和感を大事にしないといけない。しかも、そのような違和感は微小なものであるだけに、現実が侵攻してきている状況でそれを感じ取ろうとするのはかなり難しいものだと思います。しかし、理想を持たないことには、ただひたすら現実を追随するだけの「現実主義者」になってしまう。理想は大切です。
―現実―
 さて、理想を持って、さあやるぞ! と静かに意気込んだとしても、おおよそそんな理想は達成できるものではありません。現実というものは何らかの力をもって、理想に向かう私をある型に押し込めようとしてくるということです。その力は、現実の否定である理想を基に行動する私に反発してくる。それに対してどうするのか? 理想のために討死でもするのか?
by teltel-challenge | 2015-06-06 09:40