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ある大阪の大学生やってる小峰輝久が一生懸命に(or気ままに)書き綴ったものを挙げていきます。


by teltel-challenge

ヘイトスピーチに反対するカウンターの暴力に関する考察――あの罵詈雑言は何を意味しているのか?

ヘイトスピーチに対抗するカウンターへの意味付け――あの罵詈雑言は何を意味するのか――

――はじめに
 本稿は僕が研究発表で使ったものをほんの少しアレンジしたものです。本稿では、ヘイトスピーチに対するカウンターはいったい何をしているのだろう? どんな意味があるのだろう? という興味から始めっています。(ついでに言うと、私はカウンターの方法を支持し、実際にカウンターに参加したこともあります)

Ⅰ 対抗するための暴力は何をしているのか――
 本節では、憎悪表現(ヘイトスピーチ)に対抗するための暴力が行っていることの意味づけを、いろいろな文献を(にわか)参照しつつ、言語によって解き明かしていく。そのために、第一項では人間存在とその主張との関係について抽象的に論じ、第二項では具体的なカウンターの行動に即して、その意味を論ずる。これらにより、憎悪表現に対抗するための暴力に対する意味付けは明らかになる。

①人間とその主張の関係について
 まず、先に述べたように、本項はデモやそれに対する暴力について考察することを主眼としている。デモやそのデモに反対する集団は何をしているかというと、答えは簡単で、何かを主張しているのである。したがって、人間と主張の関係について考察しなければならない。


ある存在は根本的に、他者に主張し続けている。その主張とは、「私が存在することを許してくれ」という主張である。人間という存在について考えてみよう。人間は存在する。人間は確かに存在する。人間が存在するならば、その存在しているという事実があるひとつのことを主張すると考えられる。それは、「人間が存在してもよい」という主張である。これは当然で、たとえ「人間は地球にとっては害だから存在してはいけない」というハリウッド映画的なことをある人間が言い出したら、「それじゃ、お前から死ね」と言わざるを得ないからである。難しく言うと、ある人間は人間一般の存在を否定できない。なので、一人の人間が存在することは、そのまま人間が存在することを肯定する主張である。これをもっと一般化して、急に抽象的な議論に入った聴衆をもっと困惑させよう。ある存在はその存在一般を否定出来ない。なぜなら、自己言及のパラドックスに陥るからである。このように存在するものは存在するだけで厚かましくも自らが存在することを許すように主張する。人間は基本的に厚かましい存在である。いや、そもそも犬であれ、イスであれ、伊藤であれ、おしなべて存在するものは列に横入りする母のように厚かましく主張するものである。存在とは根本的に大阪のおばちゃんにすぎない。基本的に厚かましいのだ。


 しかし、存在とはなんだろうか? いや、このような問いの立て方は無意味な奈落へと至る落とし穴である。むしりろ、こう問うことにする。存在はいかに記述されるか?
人間だけではないかもしれないけれど、とりあえず人間の話をしておくと、人間というのは、属性によってとりあえず記述される。


属性とは、「Aは――である」と語る際の「――」の部分のことだ。たとえば、「Aは男である」というとき、Aは男という属性を持つ。「ゼニガメは水タイプである」というとき、ゼニガメは水タイプという属性を持つ。そして、この属性にも「肯定」は含まれている。存在がある属性を抱える限り、その存在はその属性を肯定せざるを得ない。あるいは、その属性がこの世界に存在することを許容せざるを得ない。私が大阪生まれであることすなわち大阪生まれという属性を嫌だと思っても、私は大阪生まれの属性一般を否定することはできない。なぜなら、私という存在は大阪生まれという属性と分かちがたく合致しており、その属性を否定するということは私という存在を否定することになるからだ。つまり、大阪生まれであるかぎり、その私にまとわりつく属性が嫌で、それを否定したくても、肯定せざるを得ない。存在一般や属性の好き・嫌いとそれらの肯定・否定は分けられるべきである。(なお、存在一般と属性とはほとんど同じように記述される。つまり、人間という存在は人間という属性なのだが、それは置いとくとして)。もちろん、私が神戸市出身ならば、私は大阪生まれという属性を抱える存在を感情的にではなく、論理的に否定することができる。しかし、大阪生まれの人間は大阪生まれという属性を他者に許容するように自ずから主張している。いや、主張せざるを得ない。この存在による主張を活かしたデモの戦略は「座り込み」というやつだろう。香港のやつだ。


 このように、人間は属性を抱えて存在するだけで、その抱えている属性があるということを肯定してしまうし、他者にそのことを許容するよう主張する。主張しない存在というものは知覚できる世界にはなく、存在するから主張するのか、主張するから存在するのか、これは問うても答えの出ぬ無駄な問いである。


 主張することは社会に影響を与える。つまり、存在そのものは社会に影響を与える。その影響とは、自己の存在を他者に許容してもらう代わりに、他者が自己のような存在であることを肯定するというものである。無知な人間は、他者が無知であることを存在そのものによって肯定する。勉強しない教師は、生徒が勉強しないことを存在そのものによって肯定する。柄谷行人はデモについて「デモをするということは、デモができる社会を作るということだ」と述べている。ここでは、言葉・言説による主張ではなく、存在による主張が問題になっている。


しかし、主張とはおおよそ言語によるものだと考えられている。「安倍やめろ!」とか「原発賛成!」は言語による主張である。この言語による主張と存在による主張は何が異なるというのだろうか? 先に述べたように、存在による主張は、自らがそこにいることを、あるいは自らの生き方を許容するように求めるのであった。一方、言語による主張もまた相手に要求する。ただし、存在による主張とは異なり、自己がそこにいることや自分の生き方を許容するように要求する限りではない。「1+1=2」というのは紛れも無く命令であり要求である。「神は存在する」というとき、その言葉は、「神が存在する」と私は信じているが、そのことを認めなさいという要求である。存在による主張は、自己がそこにいることや自己の生き方を許容するように要求するが、言語による主張は何らかを要求する。


②カウンター勢力は何をやっているのか?
 前項では、存在と主張が分けられるものではなく、存在そのものが主張であることを明示した。では、具体的な場面で、新町北公園から出発し御堂筋を南下し、なんば駅前あたりまで来る憎悪表現勢力に対向するための勢力は、何をしているのか? そのカウンターによる罵詈雑言は何を意味しているのか? 「帰れ 帰れ 帰れ」の連呼は何を意味しているのか? それを解き明かしていく。


 憎悪表現に対するカウンターすなわち対抗勢力は、傍から見ていて気持ちいい団体ではない。日本語を解さず、英語も解さない人間が見たら、きっと同じような右翼団体同士の抗争か何かだと思うに違いない。ひたすら罵詈雑言をわめきたて、「差別主義者帰れ」と連呼する。


 と、ここまでは悪く書いてきたが、私はカウンターを支持するし、私自身もカウンターに参加したことがある。しかし、いったい彼らは何をしていることになるのだろうか? それはずっと疑問だった。憎悪表現勢力には「一緒に日本人のための日本列島を取り戻そう!」とか「一緒に外国人に対する生活保護支給に反対しよう!」とか「一緒にワルプルギスの夜を倒そう!」とか、そういう言葉による主張がある。一方、カウンター勢力の罵詈雑言はただただ「ボケ」とか「カス」とか「帰れ」とかで、あまり主張というものがない。いや、「帰れ」という主張はあることにはあるのだが、どちらかというとこれも罵詈雑言に近い。これはいったいどんな意味があるのか?


 少し遠回りになるけれど、暴力について考えてみよう。なぜなら、憎悪表現が暴力であるなら、またカウンターも暴力であるからだ。その目的は違えど、手段は互いに罵詈雑言であり脅しであり、ゆえに暴力なのだ。そしてさらに、遠回りしたら見知らぬ公園を見つけたので立ち寄る(天気はちょっと怪しい)みたいな感じで、中絶についての論考を参照してみよう。森岡正博(2001)は『生命学に何ができるか』の「『暴力としての中絶』と男たち」で次のように語る。

 [女性に中絶させる可能性のある]男性にかせられるところの、[潜在的な]「責め」を引き受けてそれに応答する義務とは、まず第一に、みずからがふるった(あるいはふるうかもしれない)「可能性の殺人」「中絶という暴力」のことを棚上げせずに考え続けていくことであると私は思う。…[中略]…小学校に入ったその子は、お父さんになった私と、キャッチボールをしていたのかな…[中略] …男性は、自分の身体を直接通してそれらのことを了解できにくいのだから、そのかわりに頭を使って、想像力をフル回転させて、自らが行った中絶の意味を考え続けるのだ。

 森岡は暴力の行使に対して想像力を対置している。なかなか意識できない自らの罪を、自分の想像力によって意識し続けることが重要だと述べている。まだ中絶を強要させたことがない男にも、その意味を想像することが暴力を防ぐひとつの方法だ、と。


 これはこれで興味深いけれど、論旨から外れてはいけないので、元に戻ろう。暴力に対して、想像力を対置する。あるいは、法の外部(胎児が人間かどうかはまだ決着がついていない)ではそうすることしかできないというのは確かかもれない。文学を読むことで他者の痛みを想像できるとはよく言われることだ。自分の行う暴力に対して、それを振るわれたものの痛みを想像すること、そのことが暴力を食いとどまらせ得るものだろう。
だが、ここで注意すべき点は、森岡がその想像力を行使するだけではなく、その意味を考え続けろと述べていることである。文学は共感力を鍛えるみたいなことを言っているが、彼は「共感しろ」「憐れめ」とは言っていない。ただ、「意味を考えろ」と述べているだけだ。なぜなら、私たちは「共感」や「憐れみ」という感情を自らコントロールすることはできないからだ。先生に「憐れめ」と言われて、生徒が「憐れむにはどうすればいいですか?」なんてことを言われたら、その先生は嘆くだろうが、実際に私たちにできるのは理性を行使することであり、それは「想像し」「意味を考える」ことしかできないということである。


 憎悪表現を行う者も、他者の痛みが想像できないわけではないはずだ。実際に、在特会(日本の憎悪勢力の代表)の代表である桜井誠は次のように述べている。

必ずこの国には殺戮線が訪れる。在日韓国人/朝鮮人/そして反日極左と本気で命のやりとりをやって叩き殺さなきゃいけない時が必ず来るんです。その時に皆さんにね、心の強さが問われる。泣いて許しを乞う相手をあなた達本当に一刀両断で切り捨てることができるか?と。


 桜井は朝鮮人が泣いて命を乞うと想像している。彼らの痛みを桜井は想像できる。こうなったら、相手は痛みを感じるだろうなということを「知っている」のである。そして、その上でその痛みに共感することを頭脳によって拒絶する。憐れむことを頭脳によって拒絶する。刺した朝鮮人の痛みや苦痛を「想像」し、その朝鮮人を殺害した「意味」を考えて、英雄のような有頂天な気分になる。ここで、その殺害は彼らの仲間内ですでに「意味」付けされている。


桜井は朝鮮人を抹殺しなければならないと言う。なぜなら、それは自分たちが朝鮮人に搾取される被害者だという論理がもう彼の頭を占拠してしまっているからだ。そして、彼はそれを正さなければならないと考えている。ここではじめて朝鮮人を殺害した、その暴力の「意味」が浮かび上がる。その正義を実行する際に、痛みに共感することを拒否するのだ。ここが多くの人が誤るところである。彼は他者の痛みが共感できないような人間ではない。ただ、「意味」を考えることで、共感することを拒否するのである。理性の暴走を感情が食い止めることができない。


何がそのような「意味」を創りだすのか? そこにはひとつの世界の見方、世界観というものが流れている。そして、憎悪勢力は自分たち日本人は朝鮮人に差別されているという世界観にしたがって生きている。ある世界観から出発した想像力と、もうひとつの世界観から出発した想像力では、その想像力の行き着く先が異なるのは理解できるだろう。彼らの想像力は、おそらく私たちが「かわいそう」と思うところを断ち切り、共感を拒絶して、逆方向の感情を成長させているはずだ。憎悪勢力が思い描く朝鮮人の血しぶきとは(おそらく)正義が為された証拠であり、復讐の赤いシャチハタである。私の思い描く朝鮮人の血しぶきとは、日本が没落した証拠であり、犯罪の赤いシャチハタである。ある世界観とそれに基づく想像によって築き上げられるのが、物語(世界の語り方)というものだろう。つまり、このような常識的な見解に落ちる。私と憎悪勢力では生きるのに基づく物語が違うのだ、と。世界の語り方が異なれば、行動も変わってくるだろう。


 本題に戻ろう。では、そんな生きている物語が違う集団に対して、「アホ」とか「ボケ」とか「帰れ」とか言うのは、いったいどういう意味があるのだろうか? こんなの相手を説得しようともしてないし、全然論理的じゃない。ただ、怒っているだけじゃないか、と。全くそのとおりだし、私はそれでよいと考える。怒りでよい。意見を主張である必要はない。というよりも、そんなのを街頭でがなり立てたところで聞く耳を持たない。


 言語による主張として聞かれるのはただひたすら「やめろやー、ボケカス。はよ、やめて帰れや」という言葉だ。これは確かに憎悪勢力に対して憎悪表現をやめるように要求している。しかし、これは説得ではない。憎悪表現勢力は自らの意見を一般市民としての他者に説得し、政府や市民に従うよう要求している(その要求が通るかどうかは当然別問題だ)。カウンターは憎悪勢力としての他者に、ただひたすら要求している。では、その説得する気がない要求はどんな意味を持つのか?


 これら罵詈雑言は、「自分がお前とは異なる物語を生きているぞ」ということを誇示するという役割を果たしている。カウンターは「アホ」とか「カス」で何か意見を主張しているのではない。むしろ、罵詈雑言により自らの存在を誇示しているのだ。自らの存在を誇示することで、憎悪勢力とは異なる物語を生きている人間が存在することを許容するように求めている。きっと、その時点でカウンターはデモをやめさせる気はない。

ただ、憎悪勢力の他者という自らの存在を誇示し、主張するのだ。人間は他者の存在を知ることで、自己が肥大化することを防ぐことができる。憎悪勢力の肥大化を防ぐために、自分を憎悪勢力の他者として誇示するのだ。ベンヤミンを引用しよう。

怒りによって人間は、暴力の爆発というきわめてはっきりと目にすることの出来る状態に至る。こういった暴力は、何らかの予め定められた目的に、手段として関わっているわけではない。この暴力は手段ではなく顕現なのだ。


 実はこの文章にはいろいろあって、筆者は残念ながらまだそれを捉えきれていないので、今回は大幅な引用を差し控えることにした。ベンヤミンは『暴力批判論』を書いているが、その念頭にあるのは国家権力vs市民であり、カウンターに直接応用することはできない。なぜなら、カウンターは市民vs市民だからだ。しかし、参考にする点は多々あるので、それもまた次回(あるいは卒論)に譲るかも。

一般に、デモは言葉による主張と存在による主張を合わせて行う。しかし、カウンターは言葉を発しない。ただ、騒ぎ立てて自分の存在を誇示する。……なぜそうなるかはまた次回に譲りたいと思う。(それと、ちょっとベンヤミンについて触れておく。)
by teltel-challenge | 2014-10-29 09:48