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ある大阪の大学生やってる小峰輝久が一生懸命に(or気ままに)書き綴ったものを挙げていきます。


by teltel-challenge

梅田の印象――HEPの赤い観覧車

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――象徴の存在感

 もし、梅田と言う街の象徴を一つ挙げろと言われたら、何の名前を口にするだろうか?私なら、まず、HEPの赤い観覧車だと言う。縦長いビルばかりが集まる繁華街で、その赤い円は孤高ともいうべき異彩を放っている。その建築の下が有数の待ち合わせ場所であり、ストリートで活動する人たちの劇場やホールとなっていることもあって、その建築の周辺が梅田の大きな要素となっていることは間違いない。目につきやすいのだろう。ただ、この観覧車は梅田を一つにまとめて結晶化したような存在感のある象徴と言うわけではない。まあまあの存在だ。

比べるために、圧倒的な象徴としてパリのエッフェル塔を引き合いに出してみよう。たとえば、フランスの記号学者、ロラン・バルトはエッフェル塔についてこう語っている。「この塔は外国人や地方の人々が訪れるすべての場所の中で、真っ先に行かねばならぬ記念碑となる。それはパリの入り口であり、パリの知識へと続く通路となる」。ここでのパリの知識とは、パリという街の構造ということだが、周囲の建物よりはるかに高いエッフェル塔と異なり、赤い観覧車に乗ったからと言って、梅田の構造が分かるわけでもない。赤い観覧車が梅田の「入り口」とはだれも言わない。パリから塔が消えれば、もはやそこはパリではないと誇張して言えそうなものだが、赤い観覧車が消えても、やはりそこは梅田と呼ばれ続けるだろう。梅田にはいろいろなものが乱立していて、象徴がうまく機能していないのだ。これと言える象徴がない。ただ、なくなってしまえば、何かが物足りない。「あれ?無いやん」となれば、きっと悲しくなる。そういう象徴なんだろう。

――象徴の迷信


 赤い観覧車は迷信にさらされている。「カップルが一緒に乗ると、別れてしまう」というのだ。商業施設としてはとても不名誉な噂だが、建築物としては名誉である。ここまで大規模な噂が広がるのは、象徴の証しである。目立たなければ、大きな噂は立たないだろう。気味の悪い噂が立つというのは、この観覧車がいかに梅田で特別な立場にあるかと言うのを物語っている。この商都にあって、赤い観覧車はその無益さを自ら誇張しているようにさえ見える。赤い観覧車は何の役にも立たない。せいぜい夜景が見れるという程度の実用性しか持たないのは、梅田では非常に珍しい建築だ。無益さは悪い噂を立ちやすくする。悪い噂がもし有益な施設にまで及んだとしたら、その噂をしている本人たちにまで害が及ぶだろう。「HEPにカップルで行くと、別れてしまう」という迷信が大々的に流布するのはよっぽどのことがない限りありえない。というのも、その迷信はその話をしている人にとっても有害だからだ。実用的な施設が使えないのは不便だ。それゆえ、HEPの赤い観覧車の噂は階下まで及ぶことはない。噂は、あくまで赤い観覧車の噂に留まる。赤い観覧車は、それ自身の無益さが悪いうわさを広めることを許しているのだ。それは繁華街における無益な象徴のひとつの運命だ。

――象徴のまるさ

 一般的な観覧車は円形である。平和の象徴もきっと円形だろう。円形はそれ自体で完結し、その完全性と調和性を高く買われて、国際ニュースなどにたびたび登場する。円は自足しており、その図形の内側(本性の中で)で秩序を保っている。一般的な観覧車は遊園地の象徴である。それは遊園地と言う快い空間に鎮座する調和や秩序のシンボルだ。しかし、梅田の赤い観覧車はHEPの建物から乗り込むために、その完全な円形を外から見ることはできない。円の下部が建物で隠れているのだ。それは欠けている。欠けた円である。この観覧車が完全な円として現れるのは、HEPの上層階で、それに乗る直前だけである。いや、直前でさえ、その目の前にある建築の大きさに圧倒されて、視線がその形を捉えることはできない。下から見上げる観覧車は中身を赤く塗られた楕円形であり、ワゴンに乗り込めば太い線となる。私たちは赤い観覧車の「円」を見ることはできない。(もちろん、完全な円など私たちの目には見えないが)


こう見ると、赤い観覧車は一般的な観覧車のイメージと異なっている点もある。この観覧車は私たちに「観覧車らしさ」を不十分な形で与える。(その形を整えるために私たちは想像力を使わねばならない。)この不十分さの原因は、この観覧車が建物に抱えられていることにあるだろう。HEPの建物から乗り込むため、円形の一部がHEPの建物に隠れてしまうのだ。観覧車が円形であるという私たちの漠然とした先入見はこの赤い観覧車の「見えなさ」が打ち砕いてしまう。想像がどうにかこうにか、見えない部分を補おうとするが、やはり偽りのままに留まるだろう。私たちにとって、梅田に円い観覧車などない。この観覧車は完全性も調和性も私たちに直観させはせず、一般的な観覧車とは違ったものを私たちに見せる。欠けた円ほど不完全性を露にするものも少ない。これは雑然として、混沌としている梅田の町にはぴったりの印象だろう。不完全性や乱れが、照らされた赤さと相まって、特に梅田の夜にマッチする。――赤い観覧車から見る夜景の欠点の一つは、赤い観覧車が見えないことだ。

――象徴の孤独

 赤い観覧車に客はどれほど入っているのだろうか。私見では、あまり客入りはよくない。ふと立ち止まって見上げてみても、土曜日の夜でさえぽつぽつと人が見受けられる程度だ。だが、客入りがどうあれ、その観覧車の運行が昼や夕方に中止されることはないだろう。常に動いているはずものが静止するとき、私たちはそこに一つの不気味さを見出す。廃墟と同じような不気味さ。動きがないという「小さな死」が不気味さを漂わせるのだ。

しかし、赤い観覧車は止まっていなくても、そのままでちょっと不気味である。梅田は忙しい街だ。人が歩き、車が走り、電車が駆けていく街で、観覧車のスピードはこの街のスピードに追い付いていない。ゆっくりとした円運動はこの街に追いついていない。動くものはすばやく動き、止まるものはじっと止まっているこの街で、赤い観覧車はそのどちらでもないという微妙な立ち位置に留まっている。この街の速さからすれば、観覧車など止まっているも同然だ。パッと見れば、観覧車は止まっているように見える。そして、梅田にいる人間はパッとしか見ない。赤い観覧車は梅田で最も目立つ建築だが、同時に最も孤独な建築でもある。その孤独――動いているが、止まっており、止まっているが動いている――に、私たちは不気味さを感じる。(悪い噂が立つ遠因がここにあると私は思う)梅田は急ぐ人の町だ。急ぐ人間には観覧車の動きは静止して見える。立ち止まってはじめて、人はその緩やかな動きを見ることができる。その建築の孤独に孤独者として寄り添うことができる。
by teltel-challenge | 2014-03-18 19:31